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20240429 作成 20240429 更新

佐藤裕『ルールの科学』 佐藤裕『ルールの科学──方法を評価するための社会学』合評会

ここには、2024年04月28日に東京大学にて開催した 社会学研究互助会アネックス第3回研究会「佐藤裕『ルールの科学』合評会」配布資料などを掲載しています。

 このページには、合評会前に参加者に配布された、書評へのリプライを掲載しています。

このコーナーの収録物  佐藤裕さん (三つの質問への回答
  佐藤裕さん (小宮書評への回答)(討議)  ←このページ 
  中河伸俊さん (資料)(討議)  
  小宮友根さん (資料)(討議)  
  森一平さん 事前配布資料(資料  
  五十嵐素子さん 事前配布資料(資料  

小宮書評へのリプライ
佐藤裕(富山大学)

 まず、本書のような大風呂敷で(独自色が強すぎるという意味で)分かりにくいと思われる研究を取り上げていただいたこと、書評を書いてくださったことに感謝申し上げたい。特に書評を書くのは本当に大変だったと思う。
 実は本書のベースになっている考え方は、「ほぼエスノメソドロジー」であるとともに、一般的なエスノメソドロジーとは鋭く対立する部分もある。そういう意味では、小宮さんに書評を書いていただいたことは、より深い議論のための足場を作るという意味で極めて有意義だったと思う。

 ただ、評者の疑問や批判にこたえるためには本書の記述が十分ではないことを、筆者として認めざるを得ない。それは、本書は筆者がこれまで蓄積してきた多くの研究の上に成り立っており、それらの詳細については十分に触れていないからだ。本書には筆者独自の概念が数多く使われており、それらについてより詳しく知りたければ参考文献を見てほしいというのが筆者の思いだったが、もう少し本書の中での説明を詳しくしておいた方がよかったのかもしれない。
 ただ、今からそれはかなえられないことなので、書評に対するリプライとしては、そういった筆者のこれまでの研究内容も紹介しながらお答えしていきたいと思う。

 それではまず、本書の最も基本的な概念である「ゲーム」と「志向性」に関わる部分からリプライしたいと思う。書評の中ではそれほど大きく扱われていないこれらの概念をまず取り上げるのは、それがほかの論点についての理解に深くかかわってくるからだ。

 評者は、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム概念は言語使用の多様さに目を向けるためのものだったにもかかわらず、本書のゲーム概念はそれとは真逆に言語実践を「命令-行為」と「質問-応答」の二種類に「閉じ込める」ものだと主張している。しかし、筆者はこの見解には様々な点で同意できない。
 まず、ウィトゲンシュタインが言語使用の多様さに目を向けさせようとしたのかという点からして私は同意できないが、それはかなり議論が横道にそれるので置いておこう。最初に確認してほしいのは、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」概念は、それ自体は社会学の理論的概念としては全く役に立たないものだということだ。ろくな定義もなく(むしろ定義を積極的に避けており)、何が言語ゲームに該当するのかも厳密に考えることができない。実際にそれを理論的概念として使おうとする人はほとんどおらず、日本では橋爪大三郎さんくらいだが、私にはそれが成功しているとはとても思えない。そのため、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム概念と本書でのゲーム概念を「比較」するということ自体が、ナンセンスだろう。そうではなく、検討すべきは本書の「ゲーム」概念が、ウィトゲンシュタインのどのような考え方を引き継いでいるのか(そしてそれが成功しているかどうか)であるはずだ。

 本書のゲーム概念がウィトゲンシュタインから引き継いている最も重要な点は「命令」の重視だ。あまり言及されないことだが、ウィトゲンシュタインは言語ゲームについて考えるにあたって「命令」を非常に重視している。例えば最も多く引き合いに出されるだろう言語ゲームの「石工の言語ゲーム」も、命令に対して行為が対応するというものだし、これもしばしば引用される、哲学探究の第23節で多様な言語ゲームが列挙される個所でも、最初の一つは「命令」と「命令に従って行為すること」だ。
 この「命令に従って行為する」という表現の「命令」と「行為」にはそれぞれ注意するべき点がある。まず「行為」はそれ自体が言語的な活動だとは限らないということだ。つまり「手を挙げる」といった言語を伴わない身体活動を含んでいるのであり、言語ゲームが「言語」ゲームであるのは、行為の中身ではなく(この場合は)「命令」が言語的な要素を持つことによる、ということだ。言い換えるなら、「行為」一般(厳密に言えばこの場合は「行動」かもしれない)が言語ゲームなのではなく、「命令に従った行為」のみが言語ゲームなのだ。
 次に「命令」は、「自分に対する命令」を含んでいるだろうということだ。これはウィトゲンシュタインが哲学探究の中の何か所かで、「命令」と「自分に対する命令」を(特に注釈を入れずに)併記していることからわかる。つまり、この「命令」とは何らかの権限を持った強制力のある「命令」ではなく、行為をもたらすような言語的ふるまい、といったものだと考えられる。

 ここまで書けば、哲学的行為論に明るい読者であれば、それ(命令)はアンスコムの言う「記述(のもとでの行為)」に相当するのではないか、ということに気が付くのではないかと思う。これはある意味ではその通りだと思う。しかし、「命令」と「記述」ではそのニュアンスがかなり異なる。実は私は、アンスコムの「記述のもとでの行為」という考え方は、非常にミスリーディングで、大きな混乱をもたらしてしまったと考えている(詳しい説明は後述)。
 ウィトゲンシュタインの「命令に従った行為」がアンスコムによって「記述のもとでの行為」と書き換えられてしまった。私はおおむねそのようにとらえており、それをウィトゲンシュタインの考え方に戻そうとしているのだ。

 では、「命令」と「記述」はどう違うのだろうか。
 それは「命令」が行為を引き起こすものであるのに対して、「記述」はそのようなものではない、ということだ。だから、命令に「従った」行為、記述の「もとでの」行為、なのだ。
 (ウィトゲンシュタインに言及する文脈で)命令が行為を引き起こすと書くと、思い起こされるのが、いわゆる「クリプキのパラドックス」だろう。本当に命令が行為を引き起こしているのか。ある命令をどのように理解しているのか事前に知ることができないのではないか、などの疑問だ。
 この部分を説明するために必要になるのが、「志向性」という概念だ。
 志向性のイメージは「方向づける」という説明が適当だと思う。つまり「命令」は行為を(機械的にもたらすのではなく)「方向づけている」。
 細かい手順があらかじめ決まっているとは限らず、「どの方向に進めばよいか」(何をしたいのか、でも構わない)だけが示され、そのための具体的なやり方はそれぞれが工夫すればよい。「○○を持ってこい」と言われれば、手で持つのか道具を使って運ぶのか、どのルートで移動するのか、一つずつなのかまとめても良いのか、といったことはいちいち言われなくても自分で判断できる。こういったことが「方向づけ」だ。
 そして、それをさらに明確にしようとして考えたのが、書評でも言及されている3つの条件(能動性、選択肢、評価基準)である。
 例えば、「+」という記号がクワス算ではなく通常の足し算を意味しているのは、具体的な手順や「正解」が定義されていることによってではなく、「何をしたいのか」がわかっており、どんな計算が望ましいのかの評価基準(例えば、いくつかのリンゴと別のいくつかのリンゴを合わせるといくつになるのかを計算すると、実際に合わせてみた結果と同じになるのが正しい足し算だ)がわかっているからだ。このように「志向性」という概念を導入すればクリプキのパラドックスは簡単に解決できる。
 ウィトゲンシュタインはこのような「志向性」という概念には至っていなかったが、数列の例など(「意味する」という言葉についての考察)などで、それに近い方向に向かおうとしていたのではないかと私は考えている。

 ここまでのことをまとめると、言語と行為の関係は、「記述のもとでの行為」ではなく「命令によって方向づけられた(志向的な)行為」だということだ。

 「命令」と「志向性」についての考察を踏まえて、言語ゲームに話を戻そう。
 ウィトゲンシュタインは、「命令に従って行為する」ことを言語ゲームの一例と考えたが、よく考えるとこれは単なる一例ではなく、極めて広い範囲をカバーする記述だ。命令が自分に対する命令を含むなら、すべての行為と言っても良く、限定するとしても「意志的行為」ということになるだろう。つまり、そのほかにあげた「報告する」「推測する」「検証する」「創作する、読む」「演ずる」「冗談を言う」などなども、すべて意識的になされている限りは「命令に従って行為する」ことに含まれてしまう。少なくとも私はそう考えている。
 ならば、言語ゲームは「命令に従って行為すること」だとそのまま言い換えてしまってよいのだろうか。これだけでもすべての行為を含んでいるので十分ではないか。
 そういう考え方も原理的には可能だとは思うが、私はその考え方をとらない、行為一般が言語ゲームだとしても、それだけでは十分ではなく、このほかに「思考」を加える必要があると思うからだ。
 行為を方向づけるのは命令であったが、では思考を方向づけるものは何か。それは「問い」であるはずだろう。問いがあるからこそ私たちは考えることができるのだ。これがもう一つの種類の言語ゲーム、質問-応答のゲームだ。
 本書でも、言語ゲームは行為と思考を含む概念だと説明している(60ページ)。ウィトゲンシュタインが「思考」一般を言語ゲームと考えたかどうかは定かではないが、数列の例など、ある程度は思考を射程に入れていたのかもしれない。そうであるなら、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム概念と、本書でのゲーム概念の指し示す範囲は、少なくとも同等か、もしかしたら本書のゲーム概念の方が広いかもしれない。少なくとも「多様性を損なう」などとは言えないはずだ。

 言語ゲームは「質問-応答」と「命令-行為」の2種類だという主張には、そう簡単に同意してもらえないだろうと思うので、もう少し補足しておきたいと思う。
 まず、「命令-行為のゲーム」の指し示す範囲が事実上行為一般であるという点に留意してほしい。「報告」であろうが、「宣言」であろうか、「契約」であろうが、すべてそれを意図して、例えば報告しようと思ってそうしている限りは、すべて「命令-行為のゲーム」、つまり言語によって方向づけられたいとなみなのだ。
 もう一つ、「質問-応答のゲーム」については、「暗黙の(実際には発話されていない)質問」を想定する必要がある、ということだ。これについては「問いの先取り」という概念を本書でも何度か説明しているので、それを思い出してほしいと思う。

 では逆に、「質問-応答」と「命令-行為」を区別しなければならない理由は何だろうか。実はこれも非常に大きな論点なので、詳しく説明したいと思う。これは特にEMとの関係で重要になってくる。

 書評では、私が『概念分析の社会学2』からの引用を使って「概念」という表現について批判している箇所を取り上げ、それに対して反論を試みている。この部分は重要な論点を少なくとも二つ含んでいると思われるが、まずそのうちの一つが二種類のゲームに関わっているのでそこから説明しよう。
 私が小宮氏の主張から特に取り上げたいのは「実践を組織する方法」という言葉だ。「実践を組織する」というのはEM的な表現であり、私はその表現が意味するところを基本的に受け入れている。ただ、「実践を組織する」というのには二種類のものがある、というのが私の主張であり、それが二種類の言語ゲームと対応しているのだ。

 例えば、誰かのふるまいを見て、その人が謝罪しているのだと理解できることと、謝罪しろと命じられて自分が謝罪できることは異なる、というのが私の考え方であり、小宮さんたちはそれが基本的に同一のことだと考えているのではないかと私は疑っているのだ。
 ただ、「謝罪」という例は『概念分析の社会学2』からの引用で取り上げたのだが、今から考えるとこの例はちょっとまずかったかなと思う。というのは、謝罪はその行為の性質上、「謝罪に見える」ことがその行為の成否と結びついてしまっているからだ。これは「謝罪」の特殊性に依存することなので、一般化はできないと思う。
 そこで、他の例をいくつか提示して考えていただこうと思う。
 「差別している」と理解できることと、「差別すること」は同一のこと、あるいは密接に関連しているだろうか。
 「歩いている」と理解できることと、「歩くこと」は同一のこと、あるいは密接に関連しているだろうか。
 これらすべてについて、簡単に「YES」だと答えることはできないのではないだろうか。
 私は、理解できること、あるいは記述できることを、「質問-応答のゲーム」の一部だと考えている。つまり、「何をしているのか」という問いに答えるというゲームだ。これに対して、命令されたこと(自分に命令したこと)を行うのが「命令-行為のゲーム」だ。私の考え方は、この両者は原理的に別の種類のゲームと考えるべきだというものだが、私はEMはその区別が十分にできていないと思っているのだ。
 そして、それはおそらく、アンスコムの「記述のもとでの行為」という表現に影響された部分もあるのかもしれないと考えている。本来「命令」であるところを「記述」と言い換えてしまったために、その区別があいまいになったのではないかと思うのだ。
 二種類の言語ゲームの区別については、参考文献の(佐藤,2019a)の第2章でもかなり詳しく説明しているので、もし可能なら参照してほしい。この本は「人工知能の社会学」というタイトルでありながら、実は事実上「言語ゲーム」について書いた本だ(人工知能じゃないと出版してもらえないので)。

 ここまでで、「(言語)ゲーム」と「志向性」について説明と、書評に対するコメント(反論)を終える。(少なくとも)最後の論点はおそらくさらに反論があると思うので、それを期待したい。

 次に「ルール」についても詳しく説明したい。
 まず先ほどの「概念」についての箇所に戻ろうと思う。

 書評では「ルール」という言葉を「ルールすなわち『実践を組織する方法』」「謝罪を組織する方法すなわちルール」というように用いている。つまり、ルールは(ある種の)「方法」だということだろう。
 本書においてもルールは「方法」だ。この点ははっきりと書いているので理解してもらっているはずだと思う。ただそれは単なる方法ではなく、「共有された方法」だという限定を付け加えているし、それに加えて「共有の方法」もルールに含まれていると考えている。この点はエスノメソドロジーとの違いになるだろう。

 「実践を組織する方法」も、それが共有されている限りにおいては本書における「ルール」に該当する。つまり、誰か一人がその方法を持っているということではなく、ある場面にいる人々がその方法を共有していなくては「ルール」とは言えないし、さらに言えばその方法がより広い範囲の人々と共有されていれば、その「ルール」はより広い範囲のルールだといえる。そしてそこから、ではどうして(どのようにして)その方法は共有されているのだろうか、という疑問に答えていくべきだ、というのが本書の主張なのだ。
 「共有の方法」も「方法」である限り具体的に観察可能であり、EMと親和的だ。そのため、この主張はEMから見ても違和感のないものだと思うのだが、どうだろうか。
 ただ、実際の(多くの?)EM研究は、この「共有」という観点を軽視してきたのではないかと私は疑っている。それは例えば(概念分析でかなりましになったとはいえ、かつてはかなり強硬だった)「局所的達成」にこだわるという姿勢だ。
 社会秩序は局所的に達成される。だからある場面で観察されたことを普遍化することはできない…。それでは何のための研究なのかわからないのではないか?

 そういう意味で、ルールを「方法の共有/共有の方法」だと定義する考え方は、EMにとっても生産的だと思うのだが、どうだろうか。

 ルールについてはもう一つ、私には理解しがたい誤解があった。それは、本書のルールがパーソンズ的な共通価値や規範といった概念に近いという受け止め方だ。どうしてそのような読み方になるのか、にわかにはわからなかったが、あらためて自分で本書を読み返してみると、「ルールの参照」という考え方の説明が不十分だったのかもしれない。

 本書の考え方では、ルールはあらかじめ「存在」しているものではない。少しだけ引用してみよう。

 ルールという方法の基礎は、記憶や記録によってルールを存在させ、それを参照することによってルールの順守を求める方法だと考えることができる。ルールが存在していること、つまりルールの事実性は、ルールを考える上での所与の条件ではなく、ルールという方法の構成要素なのだという理解が極めて重要だ。(81ページ)

 ここで出てくる「参照」という言葉は、本書でのルールを理解するうえで極めて重要なのだが、それを十分には強調できていなかったとしたら、本書の弱点の一つになると思う。
 ルールの参照は局所的に行われる。つまり、具体的な場面で何らかの言葉などが引き合いに出され、ほらこのようなルールがあるでしょ、という具合にその場面に持ち込まれるというのが、参照のイメージだ。このような考え方はかなりの程度にEM的だと思うし、局所的達成にこだわりつつ、きちんと(ある程度グローバルな)共有の方法にも守備範囲を広げるための仕組みにもなると思うのだがどうだろうか。

 ルールに関連して、ルールの記述と評価に関する誤解というか、認識の違いについてもコメントしておきたい。

 書評では、本書が「ルールの記述には(たいした)価値がない」と主張しているかのように書かれているが、私はそのように主張したつもりはない。実際、第4章第1節(109ページから)では、ルールの記述の必要性についてかなり細かく書いているはずだし、EMについても記述そのものは大きなアドバンテージあり、それがより良い評価につながるならとても有意義だと思っている。EM研究それ自体が評価にまで至らなくても構わないと私が考えていることは、141ページの2つ目のパラグラフの記述などから察していただきたい。
 ただ、「『社会の理解の深化』がなぜそれ自体として社会(科)学の目標のひとつと考えられてはいけないのかを示す議論が必要だろう。しかし本書にはいずれの議論も存在しない」という記述はいただけない。私としては、第1章で十分説明したつもりだからだ。問題はここでいう「社会の理解の深化」とはどのようなものなのか、ということだ。
 EMのように個別具体的な社会現象を十分に合理的に説明できたとして、それが「社会の理論の深化」なのだろうか。このケースではこうだったけど、他のケースではどうなのかわからない、ということでは何のための研究なのかわからないのではないだろうか。
 では、このケースではこうだったから、きっと他のケースでも同様だろう、というところまでいけばいいのだろうか。それをするのが本書でいう「予測」ということになるが、それは社会学では十分にはうまくいかない、というのが本書の主張だ(この点についての反論は可能だと思うので必要なら試みてほしい)。そうではなく、必要なのは、このケースではこのようにしてうまくいった(いかなかった)というところまで明らかにしましょうよ、というのが本書の主張だ。  「このケースではこのようにしていました」とだけ記述して、それがよかったのか悪かったのか、まったくわからない、ということであれば(もしくは暗黙のうちに肯定しているなら)、研究として不十分ではないですか、と私は問いかけたいのだ。

 最後に、ルールについての以下の記述についてコメントをして、リプライを閉じたいと思う。

今どのルールがこの場でレリヴァントなのかについての理解を示し合う作業に人々は不断に携わっており、ルールにはそのための資源という性質がある。たとえば日常会話における順番交替の規則は、たしかに人々が従っているものでもあるが、同時に今自分(たち)がおこなっているのが「会話」であるという理解を示すための資源でもあり、今自分(たち)が何者としてどんな行為をおこなっているのかを理解可能にするための資源でもある。このルール観の転換が EMCA 研究を実践の記述へと向かわせたのだが、本書にはルールについてのこうした捉え方がない。

 「今どのルールがこの場でレリヴァントなのかの理解を示しあう作業」が本書では「ルールの参照」だ。「順番交代の規則」は「人々が従っているもの」つまり、命令-行為のゲームのルールであると同時に、「自分たちが行っているのが会話であるという理解を示すための資源」、つまり「質問-応答のゲーム(今何をしているのかという問いに答えるゲーム)」のルール(の一部)であるかもしれない。この点においては、ルールの科学とEMとの間にさしたる違いはないと私は考える。

 以上のように、ルールの科学は実際には「ほぼEM」であると同時に、ある部分では鋭く対立する。その両面に関してきちんと把握したうえで、生産的な議論が行われることを望む。

参考文献

言語ゲームについて

ルールについて

補足(その他の論点について)

佐藤裕さん (三つの質問への回答)(小宮書評へのリプライ) | 中河伸俊さん小宮友根さん森一平さん五十嵐素子さん