
このページには、『ワードマップ エスノメソドロジー』「エスノメソドロジーに関するよくある質問と答え」を掲載しています。
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| Q05 数例を見るだけで議論するのでは、一般性がないのでは? | A どのような研究に対しても、その主張の妥当性を、そこで採用されている方法と無関係に論じることはできません。だから、「事例の数」やそこから得られる「一般性」を問う前にまず、ある研究が明らかにしようとしていることが、そもそも事例の数によって保証される種類のものなのかどうかということ自体を考えなくてはなりません。 たとえば、なんであれ対象の数を数えようとするときには、数えるべき対象とそうでない対象の区別ができていなければなりません。自殺率を調べるためには自殺の数を数えなくてはなりませんが、そのときには「自殺」とそうでない「死」との区別ができていなくてはならないでしょう(【2‐1】)。つまり、「数える」ことにとってそのための区別は、論理的に先立って用意されていなければならないものなのです。したがって、その区別自体の正しさや適切さは、「数える」ことによって保証されるものではありません。 エスノメソドロジーが明らかにしようとするのは、その区別のされかたにあたるものです。私たちは社会学者が研究しようとするよりも前に、すでにさまざまな対象を適切に区別しながら社会生活を営んでいます。たとえば授業での「質問 - 応答」は、日常会話でのそれとは違った特徴をもってなされます(【7‐4】)。あるいは科学者による「発見」は、人工物とそうでないものを区別することでなされます(【8‐2】)。なんであれ社会現象は、他ならぬその社会現象として、他の現象と区別されて理解されることで存在しているのです。「人びとの方法論」(【1‐1】)とは、その区別のなされかた、言いかえれば、さまざまな現象をそれとしてつくりあげている私たちの実践のあり方のことに他なりません。「数える」ことは、その実践を前提にして初めて可能になることです。社会学者が統計調査のための操作的定義をつくることができるのも、社会学者自身が一人の社会成員として、対象の区別に習熟しているからなのです。 注意しておけば、このことはもちろん、エスノメソドロジー研究では事例は常に少なくてもよい、ということを意味するわけではありません。事例は、私たちが普段意識せずに行なっている実践のあり方、自覚せずに用いているルールを、あらためて思い起こすためのもの(リマインダ)です。そのためには、いくつもの事例を比較する必要もあるでしょうし、また多くの事例を見ていくなかであらためて気づくことができる実践もあるでしょう。ただその場合、事例を集めることは、独立したひとつひとつのリマインダを集めることでより精確にルールを思い起こすためなのであり、けっして数えた後で何かを言うための手段ではないということが重要なのです。(小宮) |
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| Q08 個別事例について極端に精密な記述を行なうことにはなんの意味があるのですか? | A EM研究においては、確かに、精密な記述がなされています。けれども、やたらに測定の目盛りを細かくしているわけではありません。そもそも「エスノ(人びとの)」「メソドロジー(方法論)」というのは、人びとが用いている方法論であると同時に、それを用いて研究を行なうことでもあります(【1‐1】)。ですから、EM研究の記述の細やかさは、メンバーの方法の細やかさにそっているのです。 そもそも「細やかさ」といっても、それが「どの程度」細やかであれば適切なのか、ということ自体、実践上の課題でありえます。たとえば、住所を聞かれたときにどのように答えるか、考えてみましょう。もしもあなたが、お店で大きな買い物をして自宅に届けてもらわなければならないとしたら、番地やマンションの部屋番号まで記入するはずです。けれど、もしもあなたが、海外旅行中で知り合った人に、「どこからきたの?」と訪ねられたら、どのように答えるでしょうか。たぶん「日本」「東京」といったものがその候補になるのではないでしょうか(【1‐3】)。科学研究において測定を行なうような場合でさえ、際限なく細かくしていけばよいというふうに、なされているわけではありません(【8‐3】)。むしろ、それぞれの実践には、それぞれ固有に適切な「細やかさ」があるのです。 EMは、陪審員が評決を行なうとき(【1‐1】)、行列をつくって並ぶとき(【3‐3】)、相談の電話をかけるとき(【5‐1】)、友だちとおしゃべりをするとき(【6‐1】)など、それぞれの実践におけるそれぞれ固有の方法を見いだしてきました。EMにおいては、これらの実践から切り離された「細やかさ」の基準を、個別の事例にあてはめるようなことはありません。むしろ、法廷においてひとつの評決までたどりついたり、いつのまにか行列を形づくることができていたり、相談の電話をともかくも終わらせることができたりなどなどを、ひとつの出来事として成り立たせることも、参加者たちにとっての実践上の課題なのです。つまり、それぞれの実践においては、ひとつの事例を、それとして区切り、それとして成り立たせるのに適切な「細やかさ」を備えた、メンバーの方法が用いられているのです。 EMが行なっているのは、こうしたメンバーの方法を記述することです。ですから、もしもEMの記述が精密になされているとしたら、それは、それだけ、メンバーの方法が精密にできている、ということなのです。そしてその精密さは、少なくともその実践においては、ありふれた精密さなのであって、けっして「極端」なものではありません。むしろ、それだけの精密さがない記述は、メンバーの方法を捉えそこなっているのです。さらにくわしくは、【1‐3】【2‐2】【5‐1】【6‐1】などをみて下さい。(前田) |
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| Q11 秩序の合理的な側面ばかりを見ていては、社会の不合理な側面が見逃されて、現状肯定的な議論になるのでは? | A この種の疑問はEMの成立初期から提示されてきました。列に並ぶあり様やおしゃべりのあり様ではなく、たとえば、犯罪や差別といった社会が抱える問題にアプローチすべきである、というわけです。たしかにEMは、従来の社会学が無視してきた社会の人びとのありきたりの振舞いを扱うことを唱え、「常識的知識・推論」を強調しました。ここで注意すべき点は「常識的知識・推論」の性質です。これらは知識内容というよりは理解の形式や知識産出の方法に言及しています。「アドホッキング」や「解釈のドキュメント的方法」(【1‐2】)、「日常会話の順番取得組織」や「隣接ペア」(【6‐2】)は常識的世界にだけ存在するものと断定されたわけではありません。今度は、これらが非日常的な活動において用いられているのかどうかが、また用いられている場合にはどのようになるのかが、一つの探究関心となっていくのです。 こうした方向性から、まずは制度的場面の会話分析を捉えることができます。たとえば「教室」においても「隣接ペア」は成員の実践の道具立てであったわけですが、ここでは、〈指導 - 応答 ― 評価〉という特異な形式をとっていたのでした(【7‐4】)。また、車椅子利用者の購買場面を扱った研究では、店員が財布の持ち主たる障害者本人ではなく、介助者に財布を開ける許可を申し出てしまうという差別的な事態が〈1人の障害者には1人の優先的な介助者が存在する〉という成員カテゴリー化装置の特質から解明されています(山崎 1993)。さらには、銃を乱射して殺人を犯した者の犯行時の言動や犯行声明がいかにして理解可能であるのかを解明した研究(Eglin & Hester 2000)や、罪状取引の研究(Sudnow 1965)などもあります。 このように、非日常的な、異常な振舞いは常識的推論とまったく異なるわけではなく、かといって常識的推論のままでもありません。両者は言わば、家族のように類似しています。「常識的知識・推論」という名の下に提出された理解の形式や知識産出の方法は、さまざまな実践を探究していく際の出発点を提供しました。その探究の成果をふまえれば、「常識的知識・推論」を出発点としたからこそ、非日常的な異常な振舞いも十分に扱うことができたと言えます。実際、さまざまな実践の研究にEMの知見が明に暗に用いられているほどなのです。(中村) |
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| Q14 構築主義との関係について教えてください。 | A ここでは、中河[中河ら 2001]や上野[上野 2001]の整理に習って、構築主義を言語論的な転回の影響下にある社会学の学派であると捉えておきます。こうした流れは、周りから言語至上主義と受け取られ、科学の構築主義をめぐる論争で顕著だったように、一種の相対主義であると考えられてきました。そこで、EMと構築主義との関係について考えるときのメルクマールとして言語と言語以外の社会との関係を取り上げることにしましょう。一般的に「言葉や語りは、その外部にある実在を写し取る鏡のようなものだが、世のなかには、言葉では語りつくせないものがあるはずだ」と考えられているのではないでしょうか。この点で、言語至上主義と受け取られる構築主義は、人びとの直感に反するものになっています。そのために、実在との対応を図ることなしに、言語を扱うことにどのような意味があるのかといった問いが浴びせられるのです。多くの構築主義は、言語とその外部の関係を調整することで、社会問題、科学、ジェンダー、身体、さらには歴史といった、広範なトピックを扱おうとしています。しかし、ミクロ - マクロという問題のときと同様に、言語と社会との関係について「因果的に」考えようとすると難問が生じ、それに悩まされることになります。 EMは、それとは違って、社会的な現実をそれ自体で「説明可能性を持つ現象」として考えています。社会的な現実を、社会のメンバーに対して、見通しを与えるようにする方法と区別できないとしているのです。説明という実践は、それを目にした人に対して「可視性」【3章】、さらには「透明性」を与えるものです。EMは「説明」と「説明以外の何か」との関係を言葉や語りとその指示対象のように「因果的に」捉えようとはしていません。ですから、構築主義のコンテクストで生ずるような、言葉や語りとその言及対象との一致という問題は、ここでは生じないのです。EMは、説明可能性とは何かという点から、一般的な構築主義とは、別の獲物を別のやり方で追っているといってよいでしょう。(岡田) |
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