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20061117

ルーマン既邦訳ブックガイド

番外編:ルーマン本?
ルーマンを主題的に扱った日本語で読める単著たち。──というのは、ヨノナカにはまだあまりありません。 とはいうものの、下に挙げたもの以外にもあると思うのですが、載っていないのは「何かよっぽどの理由」があるか、単に私が忘れているか、のどちらかです。
 下記コメントにアレコレあるムキは、→管理人までご連絡下さい。
ただしやりとりをこの場所に公開させていただく可能性がありますんで、それを承知のうえでメールよこしてくださいね (-_-)/%7E%7E
* はルーマン・フォーラムのメンバー

[030801]量が増えてきたので、ページを二つにわけました。「ふるめのルーマン本(1997年以前)」コーナーは→こちら

出版社の紹介ページ
■週間読書人の10月27日号(10/20発売)に、馬場靖雄さんによる書評が掲載されました。
出版社の紹介ページ
■酒井コメント: 大黒岳彦『〈メディア〉の哲学』そして/あるいは 本日の先祖がえり
出版社の紹介ページ
ルーマンの論文(1985)「12頭目のラクダの返還─法の社会学的法分析の意味」とインタビュー(1991) も収録されている。
「12頭目のラクダの返還─法の社会学的法分析の意味」N.ルーマン
「もしもヨハネがアリストテレスと正義をめぐる対話を深めたら──ニクラス・ルーマン「12頭目のラクダ」のためのあとがき」H・フォルカース
「法の根本パラドクスとその展開─パラドクスの分析論によせてJ・クラム
「いかにしてアラーの意志とともにあり得るか?」D・ベッカー
「自己言及的ラクダ─近代の自律的法の創成」K‐H・ラデーア
「法疎隔化 12頭目のラクダの社会的付加価値によせて」G・トイプナー/P・ツムバンセン
インタビュー「ニクラス・ルーマンと法社会学──ニクラス・ルーマンとの対談:1991年1月7日、ビーレフェルトにて」P・グーバンティフ
日本語で単著として公表されたものとしては おそらく始めて、経営学・組織論分野へのかなり本格的なルーマン理論の導入を試みたもの。
序 章 ルーマンの教育システム論 田中智志・山名淳
第一章 教育は社会化を制御できるのか 田中智志
第二章 教育システムのコードは何か 田中智志
第三章 人間学に頼る教育学はなぜ頼りにできないのか 下地秀樹
第四章 なぜ教育のテクノロジーはないのか 山名淳
第五章 教育システムの「構造的欠如」とは何か 山名淳
第六章 教育プログラムは人間を変えられるのか 高橋聡
第七章 教育のメディアとは何か 今井重孝
第八章 教育システムを統一するものは何か 今井重孝
第九章 自己創出する人間を教育できるか 田中智志
終 章 自己創出のなかの生成 田中智志
[up:040621]
序章 宗教システム/政治システム(土方透)
I 宗教システムの閉鎖性:宗教は意味喪失したか?
第1章 宗教と道徳:現代社会における道徳の世俗化と宗教の道徳化に寄せて(アルミン・ナセヒ)
第2章 コミュニケーションとしての宗教:二クラス・ルーマン『社会の宗教』において(ピーター・バイヤー)
第3章 単一か、それとも複数の世界宗教か?(ルドルフ・シュティヒヴェー)
II 政治システムの閉鎖性:政治はすべてを支配しうるか?
第4章 国家の政治か社会の政治か:政治的なものの定式化における要諦としての集合体(アルミン・ナセヒ)
第5章 政治システムの自己記述:問題論的観点からの注記(アンドレアス・ゲーベル)
第6章 政治と世界社会(ルドルフ・シュティヒヴェー)
第7章 友愛の政治と社会の政治:ジャック・デリダと二クラス・ルーマンの政治理論について(ミヒャエル・マクロポウロス)
III 偶発性定式としての神:神の統一と区別
第8章 初めに区別がある:ルーマンの宗教社会学(ヘルガ・グリップ-ハーゲルシュタンゲ)
第9章 三位一体的区別と偶発性定式としての神の統一(ギュンター・トマス)
第10章 「愛の神はすべてを見通す」─その神をわれわれは傍らで眺める:偶発性定式としての神に関する神学的注記(ベルント・オバードルファー)
第11章 閉鎖系システムの理論による宗教対話の論理(土方透)
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第1部 道徳論の社会学的地平とモダニティ
序 :道徳回帰の理論的布置
第1章:道徳論のルーマンとハバーマス
第2章:道徳論の地平と近代
第2部 公共性の理論と構造
第3章:公共性概念とモダニティ
第4章:公共性論の構図と共同性
第3部 社会学と規範主義的理論構成
第5章:デュルケームからパーソンズを経てハバーマスとルーマンへ
第6章:「大きな物語」なき後の社会学とシステム理論
[up:031208]
→出版社の紹介ページ
第一部 責任の社会理論
第一章 コミュニケーションのなかの責任と道徳
第二章 構成主義的責任論とその限界
第二部 社会的なるものへの懐疑
第三章 Why be social? 私たちはなぜ責任をとる「べき」なのか?
第四章 How to be (come) social? ささやかなリベラルたちの生
第三部 リベラリズムとその外部
第五章 《リベラル》たちの社会と《自由主義》のあいだ
第六章 可能なるリベラリズムのために リベラリズムとその外部
第四部 「社会的なるもの」の回帰
第七章 正義の居場所 社会の自由主義
[up:031113]
→出版社の紹介ページ
第1章 公共圏としての学校のシステム論的再編──アレントの「見捨てられた境遇」からルーマンの「尊厳」へ──
第2章 「個を生かす教育」を生む社会システム
第3章 オートポイエシスとしての「学習」──ベイトソンからルーマンへ──
第4章 カリキュラムのシステム論(1)──カリキュラムの内部プロセス──
第5章 カリキュラムのシステム論(2)──カリキュラムの外部プロセス──
第6章 教育システムにおける構造的カップリング
[up:031020]
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序 論 リスクの社会学の展開とルーマンのシステム論
第一部 システム論的リスク論
第一章 社会システム理論によるリスク研究──ルーマンの基礎視角
第二章 非知
第二部 決定者とリスク
第三章 信頼
第四章 リスク変換
第三部 被影響者とリスク
第五章 抗議運動
結 語 批判的リスク論の可能性
■著者を招いての読書会レジュメ→第1章第2章[030809]
■福井康太、2004、書評論文「小松丈晃著『リスク論のルーマン』」、社会学研究、2004/7
出版社の紹介ページは→こちら
第1章 コミュニケーションのシステムとしての社会の経済
第2章 貨幣の一般化
第3章 価格
第4章 貨幣と道徳
第5章 貨幣と時間
第6章 貨幣と言語
第7章 貨幣と労働
第8章 市場の非対称
第9章 市場の自己準拠──現代市場社会の観察
第10章 「仮構の他者」としての貨幣
補論 経済学の理論とルーマン理論

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序章 世界の儚さという主題―シュッツからルーマンへ
I
第1章 出発点としてのシュッツ
1 現象学的社会学/2 社会科学における「ガリレイ論」/3 <私>―体験と意味/4 まなざしの交錯/5 他者を理解するということ
第2章 転換点としてのシュッツ
1 隠されていた問題/2 自然的態度の構成的現象学/3 <内世界的レベル>への内属/4 <私>の立場の徹底/5 転換点としてのシュッツ
II
第3章 不可逆性のメタファー
1 理論のはじまるところ/2 ハイデガーの時間論―Ereignisとは何か/3 二つの現在―時間生成のメカニズム
第4章 世界と<できごと>
1 自己指示的システム理論/2 世界を経験するということ/3 <できごと>の影
第5章 観察と他者性
1 観察者=行為者/2 脱原パラドクスという営み/3 社会性を刻印された行為
第6章
1 現代社会理論における他者の問題/2 不透明な他者/3 愛の関係―<できごと>としての愛

 自明性を問う云々とか、主客図式の乗り越え?相対化?云々とか、他者を問題化する云々とか、哲学的テーマを社会学から放逐しない云々とか‥‥とかとかいった態度に、(社会学的に)なにか価値があると、著者はどうやら信じているらしい。まずはそのことが、私には信じられないって感じ。 「社会生成(構成)論」というニホンゴ感覚も、アリエネェって感じ(というか、読者を、訳語一つで「印象操作」しようとするのは 如何なものか。)。。。だが──

 この著作は或るイミ貴重かもしれない‥‥とも思われた。 つまり、現象学的にアプロプリエイトされると、ルーマン理論は “どうなってしまう” のか 、その一つの例を示した という点で。(一般に、現象学系の人は ルーマン理論から「環境世界」を >>抹消<< してしまう傾向があるようだ、という感触を私は漠然と持ってきたのだが、とりあえずこの著作についていえば、その感触を裏切らず、しっかりと裏書きしてくれている。つまり、〈システム/環境〉-区別のあるべき場所に、「世界」を据えてしまってゐるのだ‥‥。
 だが、そうしてしまうなら、そのような理論はすでに、ルーマンのものとは似て非なるベツノナニカになってしまう、という罠 ──にハマるとどうなるか、を、この著作は示してくれている、ということ。)

 儚いのは、世界ではなく、出来事なのだった。
 ルーマン理論は、世界についての ではなく、社会についての 理論なのだった。。
  (──つまり〈社会システム/環境世界〉-区別についての理論なのだった)

著者はなぜルーマンを持ち出さねばならなかったのだろう。「世界」について論じたかったのなら、現象学(的社会学)をリファレントにすれば“充分”であり、またそちらのほうが“適切”だったのではないだろうか? 著者の「目的」に適うのは、──ルーマンではなく(あくまで“たとえば”だが)──ロムバッハのような論者だったのではないだろうか?

 「なんかコメントを‥‥」と思って準備しかけたのだが‥‥、意気消沈しつつ限りなく沈降中。。。

勁草書房サイトの「著者の言葉」
↓以下のコメントに、著者の福井康太さんからお返事をいただきました[→こちら
つづいて法理論でも若手の本がでました。めでたし。ルーマン法理論を概観できるコンパクトにまとまった良書。
p.54 に出てくるような見解は(これがこの本を貫いている姿勢であるようにも思われるのだが)、私には非常に気になった。‥‥これが「あげあしとり」にしかならない程度のことなのか、それとも「立場の違い」を示すものなのかについては、まだ詰めて考えておらず、確たる事は言えないのだが。

現実の二分コード化のプロセスは、そう単純なものではなかったはずである。‥‥しかし、二分コード化の成立を歴史的に探究するということは、それほど意味のあることとは思われない。法的なやりとりが‥‥二項対立関係を基礎に構成されるようになったという事実を確認しておけば足りる。二分コード化の成立プロセスについては括弧にいれたまま話を進めよう。

なるほど、「現象論」のために常に歴史を参照する必要はないかもしれない。またしばしば(主にその都度の論述の制約から)できないかもしれない。しかし
 B)   0) 「とにかく項が二つある」というほとんど無規定な関連(=無・関連)形態から、
 1) (並列・対立・包含など)>>変換不能<< な仕方で関連づけられ、さらに、
 2) >>変換可能<< な関係にまで「技術化」され、
ついには、
 N)  脱-価値原理/選択基準-化されてしまう関係にまで至る、
そのような、二項図式の広大な「スペクトル」のなかに「狭義の二項図式・二項コード」を位置づけ、それらからの区別を論じようとすれば*、そこで歴史的・人類学的知見の参照が求められるのではないだろうか。
* これについては、『信頼』における→次の発言をも見よ。

 一般にルーマン理論は、特に 象徴的に一般化されたコミュニケーションメディア[SGM]と《2=狭義の二項コード化》とが組み合わされて論じられる側面を──そしてもっぱらこの側面のみを──選んで取り上げられることが多いようだ。

そしてそのことがしばしば、この理論に関する要らぬ誤解をまき散らしているように、私には思われる。 たぶんこれと関連することだと思うのだが、どうやら多くの論者は──「コミュニケーション」概念のほうから「バイナリ・コード(化)」についても考えねばならないのに──逆の読み方をしてしまうようだ。つまり、「コミュニケーション」概念を、「バイナリ・コード」概念を以て捉えようとしてしまうらしいのである。これがこの理論の解釈を巡って多くの──ほとんど冗談のような──喜劇が生じる理由の一つだと私には思われる。‥‥のだが、さらに正直にいえば、そもそもどうしてこのように「逆立ちした読み」をしようとしてしまうのか、それが私にはわからない。たぶんそこでは、なにか私の想像を遥かに超えた事態が生じているに違いないのだった。「社会」恐るべし。
(ただし多くのひとたちが“一致”してそのような挙動を示すところを見ると、やはりその“原因”の半分は、ルーマン自身の記述のまずさの側にある、という気もするが)。

仮に論点をSGMに絞ったとしても、問題は、「[狭義の]二分コード化の[歴史的]プロセス」に留まらない。SGM(あるいは《2》)の「技術的水準」が上昇しても・分化がどんなに昂進しても、広狭の二項図式は(あたりまえのことだが)併存し続けるのであり、そこで広狭の異同を論じることは常に“現在的”な課題であり続けるのだから。
 より広い理論的文脈に位置づけてみれば、「コード(化)論」は「カテゴリー化」や「類型化」といった議論を前提にしている(というか、コード(化)論はカテゴリー化論/類型化論の下位主題である、と言ってもよい。そしてこれは広狭双方の「象徴的な・一般化」という論点にもあてはまる)。 なるほどここで、論点を歴史的・人類学的対比──学史的伝統との関連でいえば、たとえば『分類の未開形態』的議論との対比──に限る必要はないかも知れない。(たとえば、社会進化論的視角と並ぶ重要な参照項として、カテゴリー化実践に関する議論を挙げることもできよう。とはいえこの二つは、二者択一的ではなく相互補完的な関係にあると思われるが。)
 けれども、歴史を参照せずにコード化について論じようとすると、その分だけ逆に、理論的に過剰な負担を強いられることになるのではないだろうか。──「現象論」的議論は、どのようにしてその負担を払うのだろうか? というか、その負担はなぜ払われねばならないのだろうか?(歴史を参照すること自体が負担だから、だろうか?)

 いずれにしてもいままでのところ、ルーマンのコード(化)論をこうした理論的(/理論史的)文脈に的確に関連づけて論じてくれた人は(私の知るかぎりでは)ゐないようだ。すこし残念なことではある。(020805/改020821)
序章―長期視座の歴史社会学とルーマン
第1章 ルーマン知識社会学の方法
補論1 ルーマン知識社会学とパーソンズ、ハーバーマスとの関連
補論2 カルチュラル・スタディーズとの接続の試み
第2章 ゼマンティクとしての近代初期人間学
第3章 相互作用ゼマンティクの変動
第4章 理論的中間考察――社会システムの時間性
第5章 愛の関係におけるコミュニケーション・メディアとゼマンティク
補論3 自己言及とバイナリー・コード
補論4 オートポイエーシス概念の実質的導入およびゼマンティクとしての「福祉」
終章―近代ゼマンティク論の方法と歴史
ようやく出た、ゼマンティク本。これでルーマンの「読まれ方」・「扱われ方」も ちっとは変わってくれると嬉しいなぁ。
逝っちゃってるようにみえるルーマンは、実は「意外に」オーソドックスな社会学者なんじゃねーの?・・・という気にさせてくれるかも。
■木前利秋さんによる書評:『社会学評論』(2002年、53(3))
■菅原謙さんによる書評:⇒「ルーマン知識社会学研究の新展開」in『年報社会科学基礎論研究』(vol.1, 2002)
■杉野勇さんによる書評:『現代社会学研究』(北海道社会学会) 2003,vol.16,pp.147-153。それに対する著者、高橋徹さんの「リプライ」が、同巻 pp.155-158 に。
■北田暁大さんによる書評:『社会情報』(札幌学院大学社会情報学部紀要) 2004, vol.13, pp.159-164。それに対する著者、高橋徹さんの「リプライ」が、同巻 pp.165-167 に。
リスク戦略(土方 透)
リスク回避と時間処理(アルミン・ナセヒ/庄司 信訳)
リスクとコンピュータ(エレーナ・エスポジト/徳安 彰訳)
良き欠陥を通じての自己認知(ディルク・ベッカー/円岡 偉男訳)
危険の予防とリスク処理 (カール・ハインツ・ラデーア/高橋 直哉訳)
リスクと危険との間のシュンペーター・ダイナミクス(ヘルマール・クルップ/大橋 憲広訳)
リスク処理社会(土方 透著
リスクと宗教(ペーター・ケピング著/岡村 圭子訳
リスク、責任、運命(ヴォルフガング・リップ/松戸 行雄訳
帯の宣伝文がドキュソで( ゜д゜)ポカーン。 論文集なんで、なかみは玉石。リスク論自体は、ルーマン理論の中でも特にキーになる論点かと
序論 ルーマン理論の展開と受容
第1章 複雑性
第2章 コミュニケーション
第3章 機能分化
これを超えるルーマン研究が現れるのは、いつのことになるやら
逝っちゃってるようにみえるルーマンは、・・・やっぱり逝っちゃってるわ・・・という気にさせてくれるかも。
「馬場靖雄論文書庫」で「まえがき」が読めます。
■著者の馬場さんを招いて行われた合評会のレジュメが、今井重孝さんのウェブサイトで読めます:[030620]
レジュメ2[赤堀三郎]レジュメ1[今井重孝]
■佐藤俊樹さんによる書評:『理論と方法』17(1)(2002、数理社会学会編集委員会)
■上記書評に対する、馬場さんのリプライ:「<リプライ>「全体」の陥穽 : 佐藤俊樹氏の書評に応える」in『理論と方法』17(2)
序章 ルーマンの教育システム論の視座
第I部 機能システムとしての教育システム
第一章 教育システムの反省とは何か
第二章 教育システムのオートポイエシス
第三章 教育システムにおける時間
第四章 教育システムの改革問題
第II部 教育システムにおけるコミュニケーション
第五章 教育システムにおけるメディアとシンボル― 子ども・知識・教育意図
第六章 システムとしての授業 (1)
第七章 システムとしての授業 (2)
第八章 アイデンティティと社会化
終わりに ― ルーマンの教育システム論から見た日本の教育現実
結果的に、「ワンテーマに絞ってルーマンの発言の変遷を丁寧に追いかけた」ものになっているので、或るイミ格好のルーマン入門書になっているかも
恒星社厚生閣のサイトで→目次と「あとがき」が立読みできます。
■著者の石戸さんを招いて行われた連続合評会のレジュメが、今井重孝さんのウェブサイトで読めます:[030620]
第1回[今井重孝]第2回[山田哲也]第3回[島 玲志]第4回[酒井泰斗]第5回[児島功和]
第1部 共和主義的立憲主義
第2部 法的カテゴリーのもとでの政治的紛争―共和主義的立憲主義のシステム理論による批判
第3部 再帰的政治

Emilios A. Chiristdoulidis Law and Reflexive Politics (Kluwer Academic Publishers, 1998)、の訳。ルーマン理論の「解説」っぽい部分は翻訳されなかったみたい。解説として、

を収録。
「政治の法への包摂(共和主義的法理論)」的議論および「政治としての法(批判的法学)」的議論の双方を批判して「再帰的政治」論を提起、‥‥‥ということなのですが。。。
■毛利康俊@西南学院大学#さんによる紹介が、→こちら[pdf:160k]で読めます。[030617]
■小林孝雄さんによる書評:『ソシオロジカ』(創価大学社会学会)第27巻1・2号(通巻46号)2003年3月[030804]
■既邦訳ブックガイド[ 60's / 70's / 80's / 90's / ルーマン本[〜1997] / ルーマン本[1998〜] / 論文所収本 / かすり本 /
ネットで購入可能(?)なルーマンの著作(原著・英訳)
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