[030801]量が増えてきたので、ページを二つにわけました。「ふるめのルーマン本(1997年以前)」コーナーは→こちら
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自明性を問う云々とか、主客図式の乗り越え?相対化?云々とか、他者を問題化する云々とか、哲学的テーマを社会学から放逐しない云々とか‥‥とかとかいった態度に、(社会学的に)なにか価値があると、著者はどうやら信じているらしい。まずはそのことが、私には信じられないって感じ。 「社会生成(構成)論」というニホンゴ感覚も、アリエネェって感じ(というか、読者を、訳語一つで「印象操作」しようとするのは 如何なものか。)。。。だが──
この著作は或るイミ貴重かもしれない‥‥とも思われた。 つまり、現象学的にアプロプリエイトされると、ルーマン理論は “どうなってしまう”
のか 、その一つの例を示した という点で。(一般に、現象学系の人は ルーマン理論から「環境世界」を >>抹消<< してしまう傾向があるようだ、という感触を私は漠然と持ってきたのだが、とりあえずこの著作についていえば、その感触を裏切らず、しっかりと裏書きしてくれている。つまり、〈システム/環境〉-区別のあるべき場所に、「世界」を据えてしまってゐるのだ‥‥。
だが、そうしてしまうなら、そのような理論はすでに、ルーマンのものとは似て非なるベツノナニカになってしまう、という罠 ──にハマるとどうなるか、を、この著作は示してくれている、ということ。)
儚いのは、世界ではなく、出来事なのだった。
ルーマン理論は、世界についての ではなく、社会についての 理論なのだった。。
(──つまり〈社会システム/環境世界〉-区別についての理論なのだった)
著者はなぜルーマンを持ち出さねばならなかったのだろう。「世界」について論じたかったのなら、現象学(的社会学)をリファレントにすれば“充分”であり、またそちらのほうが“適切”だったのではないだろうか? 著者の「目的」に適うのは、──ルーマンではなく(あくまで“たとえば”だが)──ロムバッハのような論者だったのではないだろうか?
「なんかコメントを‥‥」と思って準備しかけたのだが‥‥、意気消沈しつつ限りなく沈降中。。。
現実の二分コード化のプロセスは、そう単純なものではなかったはずである。‥‥しかし、二分コード化の成立を歴史的に探究するということは、それほど意味のあることとは思われない。法的なやりとりが‥‥二項対立関係を基礎に構成されるようになったという事実を確認しておけば足りる。二分コード化の成立プロセスについては括弧にいれたまま話を進めよう。
なるほど、「現象論」のために常に歴史を参照する必要はないかもしれない。またしばしば(主にその都度の論述の制約から)できないかもしれない。しかし| B) | 0) | 「とにかく項が二つある」というほとんど無規定な関連(=無・関連)形態から、 |
| 1) | (並列・対立・包含など)>>変換不能<< な仕方で関連づけられ、さらに、 | |
| 2) | >>変換可能<< な関係にまで「技術化」され、 | |
| ついには、 | ||
| N) | 脱-価値原理/選択基準-化されてしまう関係にまで至る、 | |
そしてそのことがしばしば、この理論に関する要らぬ誤解をまき散らしているように、私には思われる。 たぶんこれと関連することだと思うのだが、どうやら多くの論者は──「コミュニケーション」概念のほうから「バイナリ・コード(化)」についても考えねばならないのに──逆の読み方をしてしまうようだ。つまり、「コミュニケーション」概念を、「バイナリ・コード」概念を以て捉えようとしてしまうらしいのである。これがこの理論の解釈を巡って多くの──ほとんど冗談のような──喜劇が生じる理由の一つだと私には思われる。‥‥のだが、さらに正直にいえば、そもそもどうしてこのように「逆立ちした読み」をしようとしてしまうのか、それが私にはわからない。たぶんそこでは、なにか私の想像を遥かに超えた事態が生じているに違いないのだった。「社会」恐るべし。
(ただし多くのひとたちが“一致”してそのような挙動を示すところを見ると、やはりその“原因”の半分は、ルーマン自身の記述のまずさの側にある、という気もするが)。
Emilios A. Chiristdoulidis Law and Reflexive Politics (Kluwer Academic Publishers, 1998)、の訳。ルーマン理論の「解説」っぽい部分は翻訳されなかったみたい。解説として、