
「立ち読みコンテンツ」は、校正前の原稿に もとづいて 制作しています。引用・参照は 書籍からおねがいします。
[前田泰樹]
| ループ効果 | 本書には,さまざまなトピックが登場します。生物学的人種や遺伝学的知識から始まって,ポルノグラフィや化粧にいたるまでの多様なトピックには,一見すると相互に関係がありそうにみえないかもしれません。けれども本書の各章の記述には,一つのはっきりしたねらいがあります。それは,私たちが自らのあり方や自らの経験や行為を理解するさいに用いている概念の,その用法を記述しよう,というものです。だから,本書に登場するトピックの多様さは,私たちが実際に使っている概念の用法が多様であることを示しているのです。 実際に,私たちは,自らのあり方や自らの経験や行為を理解しようとする際に,さまざまな概念を用います。その中には,日常的で身近に感じられるものもあれば,医学や法学の概念のように,高い専門性を帯びているように感じられるものもあります。ここで注意して欲しいことが一つあります。それは,科学的概念がどれほど高度な専門性を帯びたものであっても,それが人間の経験や行為を対象とするものである限り,私たちの日常において用いられる常識的概念と何らかの結びつきをもっている,ということです。だからこそ,本書においては,こうした人間を対象とする諸科学の概念と日常の概念との結びつきが,繰り返し記述されていくことになります。 そして本書ではとりわけ,人間を対象とする諸科学において,新しい概念が用いられるようになる場合をとりあげて,考察しています。そうした新しい概念は,私たちの経験や行為の理解の仕方を変えてしまうことがあります。科学哲学者のI. ハッキングはこうした現象に照準するために,「ループ効果(looping effect)」(Hacking 1995=1998; 1996)という言葉を用いています。ハッキングがこの言葉を用いるのは,人間科学の概念と,その概念によって記述される人々との間で相互作用がおこることに目を引こうとしているからです。その相互作用は,人々を記述したり分類したりする新しい方法や理論のもとで,記述された人々の経験や行為の理解の仕方を変化させ,さらにその変化が分類や理論の改訂を要求するようになる,といった過程で進んでいくものです。 ここで注意しておきたいのは,ハッキングが,ループ効果を,論理的な問題だと考えていることです(Hacking 1995=1998)。つまり,新しい方法によって,新しい選択肢が選択可能になり,行為のための新しい機会が人びとに開かれていくことに目を向けようとしているのです。本書でも,このような論理的な観点から,新しい概念が私たちの経験や行為の理解の仕方をどのように変えていくのか,そうした私たちの変化がどのように概念の位置づけ自体を変えていくのか,といったことを注目すべき現象としてみていきます。 1章では,(身体の形質上の類似にもとづく)「類型論的な人種」と区別されるような仕方で,(遺伝子頻度にもとづく)「統計学的集団としての人種」という概念が,「生物学的事実」としての位置づけを獲得していく,その過程が描かれます。そして,2章では,遺伝性疾患の当事者たちによる「同じ病いの経験」を軸としたメンバーシップを確立する実践において,病む人の位置づけと,その人を位置づける言葉の側とが,ともに置き換えられていった様子が描かれていきます。本書では,このような新しい概念の使用可能性と,私たちの経験や行為の可能性とが,結びついていく現象に,繰り返し焦点があてられます。 |
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| 概念分析 | このような概念の結びつきを記述していこうとするとき,その結びつきにも多様さがあることに気づかされます。たとえば,遺伝子をめぐる思考法が確立する中で,人間の健康や病いをめぐる状態を遺伝と環境の対概念で説明することを可能にしていった,それらの概念の結びつきと,そうした対概念を前提とした上で提出される個々の遺伝学的知識をめぐる概念の結びつきを比べてみると,両者が同じ水準にあるとあらかじめみなしてしまうことはできないとわかります。さらに,1章における「統計学的集団としての人種」をめぐる記述をお読みいただければ,この概念が,「生物学的事実」として位置づけられるものでありながら,人間が実際に社会的なグループを作り上げているやり方と根強く結びついており,その結びつきが一連の議論の前提になっているのだと,わかると思います。概念の結びつきの中には,それがないと他の判断や推論が成り立たなくなるような強い結びつきと,そうした結びつきを前提としつつなされる一つひとつの判断や推論のような弱い結びつきがあるのです。 この点をはっきりさせるために,L. ウィトゲンシュタインの言葉をあげておきましょう。ウィトゲンシュタインは,「経験命題の形を備えたいくつかの命題が凝固して,固まらずに流れる経験命題のための導管となるのである。この関係は時に応じて変化するのであって,流動的な命題が凝結したり,固まっていた命題が逆に流れ出したりする」(Wittgenstein 1969: §96=1975)と述べていました。この言葉に沿って考えるならば,本書に登場する人間科学の概念をめぐる結びつきの多くは,経験的に確かめることのできる命題の形をしていると言えるでしょう。ただし,それらのいくつかは「生物学的なもの/社会的なもの」「遺伝/環境」「科学/社会」といった反復される対概念を巻き込みながら凝固して,他の推論のための導管となっていったものでもあるのです。 さらにウィトゲンシュタインは,こうした概念の結びつきの変化を,「河床を流れる水の動き」と「河床そのものの移動」との区別になぞらえています(Wittgenstein 1969: §97=1975)。ループ効果のただ中において生じる概念の結びつきの変化を記述していくという本書の作業は,何が「河床そのもの」として働いており,何が「流れる水」として動いているのかを,区別して記述していくことでもあるのです。人間を対象化するさいに用いられる思考法は,「河床そのものの移動」によってある場合には「導管」として働くようになるのだけれども,たとえば遺伝学的知識を告げられた当事者たちの活動において,その位置づけ自体が置き換えられていったように,別の場合には「流れる水」として流れ出していくことがあるのです。 本書の試みは,このような概念の結びつきが用いられつつ変わっていく様子を記述することによってなりたっています。このような作業は,概念分析,あるいは概念の論理文法の分析と呼ばれることがあります。その作業は,ウィトゲンシュタインや日常言語学派哲学の影響を受けながら「エスノメソドロジー(=人々の方法論)」という名前の学問分野を作り上げてきた人たちによって継承されてきたものでもあります。その代表的な論客であるJ. クルターは,(「固まらずに流れる経験命題のための導管」としてはたらく)「論理文法」を特定するためには,「使用と文脈(use-and-context)が実際に生ずる機会」をみるようにと勧めています(Coulter 1989b: 50)。そうした観点からするならば,本書の各章でなされているのは,実際の使用と文脈において,何が他の推論のための水路として用いられているかに着目しながら,この水路の網の目を記述していく作業なのです。 |
| 実践の記述 | このように考えてみるならば,本書においては,単にどのような概念が用いられているか,ということだけでなく,その概念が「どのように」用いられているか,といった問いが重要であることがみえてきたのではないかと思います。どのような概念の結びつきが,動かない「論理文法」として用いられるかは,実践において決められていくことでもあります。それだけでなく,その概念の結びつきを人びとが動かさないように扱うことによって,その実践が成り立っていることもあります。こうした実践のあり方にこだわったウィトゲンシュタイン派のエスノメソドロジストに,M. リンチがいます(Lynch 2000=2000)。リンチは,ハッキングの書物に対する批評として,実践の詳細を記述するよう促してきました。つまり,概念の用法を記述するにあたって,実践における語りや記録の用法を含みこんだ記述をすることを推奨してきたのです(Lynch 1995)。本書におけるループ効果の記述も,こうした指摘を受けてなされたものであります。 実は,リンチとハッキングの間には,もう一つ面白いエピソードがあります。リンチは,「ループ効果」という言葉について,すでに社会学者E. ゴフマン(Goffman 1961=1984)が使っていたものであることを指摘しているのです(Lynch 2001)。ゴフマンのそれは,全制的施設(似た状況におかれた多数の個々人が,よりひと位社会から相当期間切り離され,管理され,居住し,働く場所)において,自らのおかれた状況に対する被収容者の反応が,状況それ自体へと折り畳まれていく過程を指しています。つまり,攻撃に対して不機嫌な様子を見せたりするような防衛的反応が,さらなる攻撃の対象になると理解するからこそ,それを控えるような表敬パターンをとるようになっていく,といった過程で進行するループのことを指しています(Goffman 1961:35-7=1984)。 この指摘に対して,ハッキングは,ゴフマンをM. フーコー(やJ. P. サルトル)と並べた上で「一人の人間の可能性のうち,あるものがまさに存在するようになり,他の可能性が排除されるのはいかにしてかという問い」を扱っているのだと,応答しました(Hacking 2004: 288)。ハッキングは,自らの参照するフーコーと,リンチの参照するゴフマンとの間に,力点の違いを認めこそすれ,同じ問いを見いだそうとしているのです。このハッキングの言葉は,本書にとっても重要なものです。本書においてなされる実践の記述もまた,この同じ問いに答えようとしたものだからです。 たとえば,4章は,「精神障害者自身が裁判を望んでいる」という主張が,一つの法律の導入をめぐって,賛成派からも,反対派からも言及されているのはどうしてなのか,という問いから出発します。そして,だれが「当事者」なのかをめぐる複雑な論理を記述していくなかで,現在「当事者の主張」が実は十分聞かれていないのではないか,という地点へとたどりつきます。また,被害経験を名指す概念として「セクシャルハラスメント」は受け入れられたのに,「ポルノグラフィ」はなぜ受け入れられなかったのか,という問いに導かれて書かれた5章は,「個人」の被害という考え方のもとで,「女性」の被害であることが理解されにくくなってしまう論理を明るみに出していきます。これらの章をお読みいただければ,人間のあり方の可能性のうち,あるものが重みをもつようになり,他のものが現れにくくなっていく,そうした実践を記述することの意義が伝わるかと思います。 このような人間のあり方の可能性をめぐる問いは,人間を記述するための概念,すなわち,「当事者」や「女性」といったカテゴリーのうち,どれを用いて自らを理解するか,という問いでもあります。そして,この問いは,自らをどのようなカテゴリーのメンバーとみなすかという,メンバーシップをめぐる問いでもあるのです。H. サックス(Sacks 1979=1987)以降,エスノメソドロジストたちが行なってきたように,本書でも,こうしたメンバーシップ・カテゴリーの用法の適切さを,人びとの実践へと差し戻しつつ,記述していきます。 なお,本書における記述的研究は,どのような概念やカテゴリーを用いるべきか,という問いに,道徳的に答えるものではありません。しかし,たとえば,「統計学的集団としての人種」をめぐる生物学の概念が,人間が実際に社会的なグループを作り上げているやり方と結びついていることを想起するのであれば,私たちは,「生物学的なもの」と「社会的なもの」をめぐる論争に,一つの見通しを得ることになるでしょう。また,「遺伝学的知識がだれにとって,どのような意味を持つものであるか」記述することは,「当事者」たちが遺伝学的知識と折り合いをつけてきた方法から学ぶことでもあるでしょう。あるいは,「個人」というカテゴリーのもとでの理解が,「女性の被害」の理解に阻害的に働く論理を想起するのであれば,そこに考えるべき問題があることに気づかされるでしょう。したがって,本書の記述は,それを資源として,私たちが,道徳的に考えることを可能にするものでもあるのです。 サックスは,かつて次のように述べていました。 社会変動の最も重要な問題の解決には,カテゴリーの集合(セット)の配置,それらの使われ方,カテゴリー構成要素(メンバー)についての知識,カテゴリー適用規則の変化や,カテゴリー属性の変化,これらすべての解明が不可欠だろうと思われる」(Sacks 1979: 14=1987: 36)。本書は,この解明を行うものなのです。 |
■イアン・ハッキング,1998 『記憶を書きかえる──多重人格と心のメカニズム』北沢格訳,早川書房.
■ジェフ・クルター,1998 『心の社会的構成──ウィトゲンシュタン派エスノメソドロジーの視点』西阪仰訳,新曜社.
■マイケル・リンチ,2000 「エスノメソドロジーと実践の論理」椎野信雄訳,情況出版編集部編『社会学理論の<可能性>を読む』情況出版.
■ハーヴィ・サックス,1987 「ホットロッダー──革命的カテゴリー」山田富秋・好井裕明・山崎敬一訳,『エスノメソドロジー──社会学的思考の解体』せりか書房.)
ハッキング自身が,ループ効果を描いた研究としては,『記憶を書きかえる』が見やすいかと思います。「多重人格症」やその原因としての「児童虐待」の記憶が,新しい概念のもとでいかに記述可能になっていたのかを,描いた著作です。ただし,この著作の原題からするならば,『魂を書きかえる──多重人格と記憶の科学』と訳した方が内容がつかみやすいかもしれません。この著作では,(魂の世俗化というかたちで)記憶を共通の知の対象とするような「記憶の諸科学」が作り上げられたこと,そして,これらの記憶の科学の諸概念のもとで,人間の行為についての新しい記述が用意され,新たな論理空間が切り開かれてきたことが示されています。
また,エスノメソドロジー的な概念の論理文法分析の著作としては,心をめぐる概念の論理文法を記述した,クルターの『心の社会的構成』をおすすめします。エスノメソドロジーの基本的な考え方については,少し難解ですが,リンチの『実践の論理』をお読みいただければと思います。そして,エスノメソドロジーの古典的な研究としては,サックスの『ホットロッダー』をおすすめします。この作品では,「ホットロッダー」と自らをよぶ若者たちが,車の分類や暴走行為を行いながら,自らを記述すべきカテゴリーに結びついた知識体系をすべて変更し,いわば自分たちを見る(が見られる)見方そのものを変えていく,といった実践が記述されています。現在では,会話分析の創始者として知られるサックスの,初期の問いに導かれたこの作品をお読みいただければ,本書が,初期サックスの問いの継承を試みた書物であることが,伝わるのではないかと思います。
[酒井泰斗]
| 再び,ループ効果について | ナビ1では,本書の主題(ループ効果)と方法(概念分析)について紹介しました。このナビ2では,本書の主題である「ループ効果」について もう少し議論してみます。もっとも「ループ効果」という言葉自体には難しいところはありません。ナビ1でも紹介したように,これは,
* ハッキングは,「人々を分類するための概念や方法」と「その概念や方法で分類される人々」とのこうした相互作用(=ループ)を引き起こしうるものを「相互作用類(interactive kinds)」と名づけています。ループ効果を主題とする本書にはこの言葉が何度も登場しますが,代わりに「分類」や「概念」といった言葉が用いられていることもあります。なお,ハッキングの複数の著作や論文には「相互作用類」のほかにも「有意類(relevant kinds)」「人工類(human kinds)」などといった いくつかの異なる言葉が登場しますが,これらはほぼ同じことを指すものです。この点については「読書案内」も参照してください。
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| 2章(遺伝)と1章(人種)を手がかりに | たとえば2章(遺伝)では,遺伝学的知識が日常生活に提供されることで生じる事柄が論じられていました。遺伝性疾患を突然告げられ,新しい概念の下で自分の行為や経験を再記述し,同じ病いの経験を持つ者として繋がりを作っていく,という一連の活動。そこにおける判断や推論は,まさに遺伝学的知識と人々との間でのループ効果だといえるでしょう。さらに,遺伝学的知識が備えるべきリスクとして位置づけられていくという議論では,これまで蓄積され歴史化されてきた「経験」が今度は遺伝学的知識へと効果をもたらす可能性も示唆されています。 1章(人種)では,「専門家」同士の論争において人間についての新しい分類が登場してくる事情があつかわれていました。この章には「類型論的な人種」と「統計学的集団としての人種」という二つの概念が登場しますが,前者は身体の形質上の類似にもとづくものであり,これを批判して出てきた後者は「繁殖集団」(対応する遺伝子は他の集団にも分布しているが,その頻度において異なる集団)という遺伝学上の概念にもとづくものでした。前者の場合,これが人間集団に対する日常的な分類を参照・前提としていることは見やすいところですが,後者の場合も,その概念が成立し・また理解できるのは,人間が実際に社会的なグループや生殖関係を作り上げているやり方を参照してのことだったのでした。このように,人々を記述・分類するための専門的な概念のほうも,もともとは日常的な語用に根を持ち・それを前提としながら,そこにさまざまな──ときには明示的な,またしばしば非明示的な──操作的概念を補助的につけくわえながら再定式化する,といった作業を経て彫琢されていくものなのだ,というわけです。 |
| ループ効果の諸側面 | こうした議論を踏まえると,ループ効果という現象(についての研究)は,次のような側面に分節できるでしょう*。
こうしたわけで本書の各章では,「ループ効果」の こうした諸側面を視野にいれたうえで──しかし各章ごとに,そこであつかわれている題材に応じた限定のもとで──出発点やウェイトの置きかたの異なる作業がおこなわれています。それらをさらに幾つか読んでいただいたうえで,ナビ3では,こうした研究の意義について考えてみることにしましょう。 * ハッキングは主として [q] の側面を「ループ効果」と呼んでいますが,私たちは,ハッキングよりも広いいみで──[p]や[r]も含めて──この言葉を用いることにします。なによりハッキング自身が,科学哲学者・科学史家として──「特定の専門分野」について,また「人々の制作」について──[q] だけではなく,[p] や [r] に相当するたくさんの仕事をおこなっていますから,そうした研究(の多様さ・複雑さ)を首尾一貫した見通しのもとで把握するにはこちらのほうがよいでしょう。
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■ネルソン・グッドマン,キャサリン・Z・エルギン,『記号主義』菅野盾樹訳,みすず書房.
■イアン・ハッキング,「人々を作り上げる」隠岐さや香訳,『現代思想』vol.28-1.
注で触れた「有意類」という言葉は,もともと──「自然類(natural kinds)」から区別されるものとして──哲学者ネルソン・グッドマンが用いたものです。グッドマンは この術語を手がかりにして,「人々が 手元にあって使うことができる知識や概念をもとにして 知識や経験の新しいヴァージョンを生み出していくやり方」について──反実仮想や帰納法といった科学哲学的話題から,絵画を描く・観るとか音楽を創る・演奏する・聴くといった芸術哲学的話題に至るまでの──幅広いトピックについて論じました。グッドマンのこうした仕事を概観するには『記号主義』が便利です。ハッキングは,そのアイディアを展開する形で様々な仕事を進めましたが,その中で,この言葉が,「人工類」や「相互作用類」などへと言い換えられていったのです。
ハッキングはこうした一連の仕事を「人々を作り上げること(making up people)」の研究と名づけていますが,これもグッドマンの著作タイトル『世界制作の方法(Ways of Worldmaking)』にちなんだものなのでしょう。このあたりの消息については,論文「人々を作り上げる」や『何が社会的に構成されるのか』の第5章を参照してください。
なお,本書では「kinds」の訳語に「類」をあてました(「自然類」「有意類」「人口類」など)が,類書では「種」を用いているものも多くあります(「自然種」「有意種」「人工種」など)。適宜読み替えてください。
[中村和生]
| 「ループ効果」の分節化 | ここまで,様々なトピックにわたる分析が繰り広げられてきました。たしかに,すべてのトピックは多種多様ですが,これらの論文には共通した狙いがありました。一つは概念分析の手法を用いてアプローチしていることです。 この点を前書きやナビ1の説明に沿って理解して頂ければ,いくつかの論文に対して生じやすい誤解もおきなかったことと思います。たとえば,化粧実践と「素肌」について論じた上谷論文は,その「歴史的変遷」を歴史家からみれば大雑把に辿っているというのではなく,「化粧」という概念と,その活動の担い手としての特定の社会集団の概念(「婦人」「女学生」「職業婦人」)との論理的・倫理的結びつきを歴史の中に見いだしているのです。 ポルノグラフィをめぐる論争を題材とした小宮論文に対しても同様のことが言えます。この論文は,たんに専門家同士の論争をまとめているのではありません。そうではなく,「行為」「表現」や「被害」という概念が「個人(の自由)」という概念といかなる仕方で結びつくのか/つかないのか,また「女性」という概念とならば,いかなる仕方で結びつく/つかないのかを取り出してきているのです。この目的に沿って論争がまとめられているのです。 本書最後の二つの論文も,あくまで概念分析の手法が用いられています。たとえば,優生学を扱った石井論文も,一人の著述家,永井潜の「思想」をたんにまとめ上げたのではありません。永井の言説に外在的な「文脈」をあてがうことなく,永井じしんの「一元論的並行説」における概念間の結びつきと,その結びつきを産出していく方法を提示しているのです。つまり,永井の議論の地平がいかに切り開かれたのかに概念分析的にアプローチしているのです。 さて,もう一つの狙いに話を戻しましょう。もう一つの狙いは,少なからず「ループ効果」が生じている現象を取り扱っていることでした。ループ効果とは,人間にまつわる科学の概念が,その概念によって記述される人々に何らかの影響を与え,その影響が今度は科学の概念に何らかの影響を与えるといった相互作用のことでした。 そして,本書ではループ効果を3つに分節化して把えることをナビ2で示しました。その3つをさらに図式化してしまえば以下のようになります。
つぎに,これまでの論文のテーマを大雑把にまとめておきましょう。遺伝学における「人種」概念およびその日常的概念との関係(浦野論文),遺伝学的知識を前提にしつつなされる判断や推論(前田論文),医療知識における「経験」の専門概念化と,医療実践における「経験」(安藤論文),「触法精神障害者」の願望を記述する際の多様な論理(喜多論文),ポルノグラフィが「個人」の被害か「女性」の被害かをめぐる論争(小宮論文),化粧実践における「素肌」の誕生(上谷論文)。 では,こうしたテーマを持つ各論文を,ループ効果の観点から整理していきましょう。すると,一口にループといっても極めて多種多様であることがわかってきます。 |
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| 「ループ」の多様性 | ナビ2ですでに説明したように,前田論文では [q] の側面が丁寧に論じられていました。同じ遺伝性疾患を持つ者どうしによって創られた,遺伝学的知識と折り合いをつけていく方法は,まさに,専門的・科学的概念が人々の日常生活に与えた効果です。さらには,これまで蓄積され,歴史化されてきた「経験」が今度は遺伝学的知識へと効果をもたらす可能性も示唆されていた点で,[r]の側面への目配りもなされていました。 もちろん,ループ効果とは現象を名指しているわけですから,効果の性質や程度も現象ごとに変わってきます。化粧実践と「素肌」について論じた上谷論文では,「皮膚の科学」の知識がファッション誌で取り上げられている様が論じられていました。とはいえ,その取り上げられ方は「化粧をする視点からの再構成」,つまりは皮膚という生物学的実体の客観的構造を,化粧実践にとって必要な限りで選択的に利用するというものでした。しかも,「素肌」という概念は「皮膚の科学」ではなく化粧実践の産物でした。よって,このループは効果としては消極的なものであり,むしろ,実践の目的に応じた(客観的)知識の利用という側面が際立っています。 ポルノグラフィが「個人」の被害か「女性」の被害かをめぐる論争を扱った小宮論文は独特な形態のループ効果を取り扱っています。そこでは,ポルノグラフィが何であるのかを法の概念の下に記述すること自体が,ポルノグラフィと何らかの関係を持ち経験を有する「女性」の概念把握を置き去りにしてしまっているということが論じられていました。 ここで,ハッキングが論じている人工類の下位分類が役立ちます。ハッキングは「ゲイ」を例にして,かつては受動的な知識対象であったが,今や自らの知識(の産出)の担い手となった人々を「自己帰属的人工類」と名づけています。すると,こう言えるでしょう。ポルノグラフィを「個人」ではなく「女性」の被害として主張するマッキノンの主張は,セクシャルハラスメントと同様に,全面的にではないにせよ「自己帰属的人工類」として「女性」を呈示し,さらには法体系に効果をもたらそうという一つの振舞であったのだ,と。 そして,ここでのループは,まずは法概念が日常生活における女性の経験に効果をもたらし,次に今度は逆の効果がもたらされるというような時系列を持つのではなく,両者が同時にぶつかり合う言説空間そのものだと言ってよいでしょう。このことが論文では「ループ効果のまっただなかにある」と表現されていました。つまり,小宮論文は[q]と[r]という二側面が同時に生じる実践を取り扱ったものと言えるでしょう。専門的概念は日常生活の経験に効果をもたらす一方で,同時に,その反作用としての実践的行為の効果を受ける可能性にさらされていたわけです。 医療における「経験」概念を扱った安藤論文も類似する形態のループを持ちます。そこでは,そもそもループが何処にどのようにあるのかが問題とされたとさえ言えるでしょう。まず前半では,脱医療化のどのアプローチも,医学的概念と患者の経験が独立に存在すると仮定して,患者の経験をいかに取り出すかという問い立てをしていたことが論じられました。そして後半では,医学的概念が用いられる医療実践の場においてこそ,患者の経験がまさにそれとして表れてくるのであり,それがどのように表れているのかが分析されていました。つまり,医療実践こそが,医学的概念と患者の経験とがループし,互いに効果をもたらしうる場なのです。論文で取り上げられていた脱医療化も,その医療実践じたいがこの独特なループの一つの新たな形だということになるでしょう。 「触法精神障害者」の属性を主張する際の多様な論理を論じた喜多論文では,言説のあまりに複雑な絡み合いを適確に捉えるために,フーコーの「言説の分散」という表現に立ち返って分析が施されていました。その複雑さを如実に物語っているのは,「触法精神障害者は刑罰を望んでいる/いない」という言説が触法精神障害者自身だけでなく,そして自身よりも法曹関係者などによって代弁形式で述べられているという事実です。ループ効果の観点からすれば,一つの人工類に対する同じ言説が[q]と[r]において用いられているような事態と言ってよいかもしれませんが,もう少し明白に把握するために,ここでは人工類の下位分類をいくつか使って,このループの独特性を描いておきましょう。 ハッキングは,本人の意志が閉ざされていると規定され,それゆえループ効果が生じていないように思われるけれども,実際には生じている例として「自閉症」を挙げています。これは「自閉症」という概念が,本人ではなくとも本人に関わる者(家族など)にループ効果を与えているからです。こうした人工類を「接近不可能な類(inaccessible kinds)」とハッキングは名づけています。(そして自閉症に関わる者たちが,まさに意志が閉ざされているとする概念自体を変えてもいくことについてハッキングは論じています。) すると,「触法精神障害者」はこの類の性質が際立ちつつあると言えるでしょう。「触法精神障害者」は,代弁形式によって,観察法に賛成/反対する議論の中で用いられたりしていました。また,「接近不可能な」性質であるとみなされているからこそ,「触法精神障害者は刑罰を望んでいる」は事実命題として主張されても,その証拠提出が義務づけられてはいませんし,さらには規範命題としても主張され,浸透しやすくなっているとも言えるでしょう。 しかしながら,論文で詳細に論じられているように,「(触法)精神障害者」自らによっても「刑罰を望む/望まない」などなどの主張がなされています。さらに,保安処分反対運動の時代には,そうした主張がより力強くなされていたのでした。こうした「(触法)精神障害者」自らによる多様な主張は,全面的にではないにせよ,先に述べた「自己帰属的人工類」として「(触法)精神障害者」を呈示しようとする試みと言えるでしょう。 よって,「(触法)精神障害者」は,分散する言説実践において,「接近不可能な類」の性質と「自己帰属的人工類」の性質との間を揺れ動いており,諸々の言説はそうした効果をもたらしていると言えるでしょう。 以上,各論文を「ループ効果」という観点から整理してきました。すると,ループ効果の[q]と[r]の側面に限定したとしても,その形態も効果も多種多様であることがわかって頂けたかと思います。それでも,この多種多様な形態は,人間に関わる科学が人間に与える効果について論じています。ループ効果の多様性は人々の生活形式の多様性を映し出しているのです。本書では,この多様なる社会現象をハッキングにならって「ループ効果」として捉え,研究の導きの糸としてきたのです。 |
| もう一つのループ | さて,すでにお気づきかもしれませんが,遺伝学における「人種」概念を扱った浦野論文について未だ論じていません。ナビ2で論じたように,この論文はループ効果のうちで[p]の側面,つまり,人間に関わる諸科学を新しく概念化していく際の,その科学の概念と日常生活との関係に焦点を合わせていました。集団遺伝学的人種概念とは遺伝子頻度において異なる集団のことですが,それはあくまで「アフリカ系アメリカ人」のようなア・プリオリな社会集団を前提にして同定されていくものでした。 つまり,浦野論文では,人間に関わる諸科学の新しい概念(化)は日常言語の概念に依存しつつなされるということが詳細に示されていたと言えます。さて,こうした論点は,科学のエスノメソドロジー研究を行ってきたマイケル・リンチの主張とも合致します。ループ効果の議論ではハッキングがあまり注目しなかった[p]の側面は,こうした科学研究の方向性を経由して初めて,ループのもう一つの側面として焦点化できるものなのです。 「常識的知識」と定式できるものが,いかに理論化も含めた科学活動において特有に用いられているのか。このことを自らの研究も含めた様々な科学研究によってリンチは示していきました。たとえば,生化学の実験室をフィールドとしたリンチの研究を取り上げてみましょう。そこでは,実験手続きによって生じた変化が研究対象の実在的性質を示しているのか,それとも人為的産物なのかが,当の生化学たちに常に気にかけられていました。そして,期待された効果が生じない場合には,それを阻むものを探っていくような場合もありました。つまり,効果への期待が規範的になっている際には,効果のないことが端的な事実として受け止められないのです。もちろん,効果を阻むものが常に見いだされるわけではありませんが,こうした規範的期待が実験室の活動の詳細なる秩序を作り出していたのです。 そして,このような規範化した期待によって事態を把握するという判断は何ら科学活動に特有の特質ではありません。とはいえ,こうした判断が他の判断や推論と結びついている様は,それぞれ固有なものでもあります。よって,1つの科学活動における推論や判断は,常識的な推論と家族のように類似していると言えるでしょう。すると,焦点を合わせるべきなのは,どんな判断や推論が,そしてどんな概念が,上で日常的と呼んだものに依拠しつつ特有に結びつくことによって,学問的営為を形作っているのか,ということになるでしょう。 こうして,この論点はループ効果にもう一つの側面([p])を加えてくれます。人間の科学の概念が人々に効果をもたらし,それがさらなる反作用をもたらすという側面([q][r])とは別に,人間の科学が人間を対象とする際に,人々に既に用いられている概念や推論や判断から効果を受ける側面です。人間の科学による概念は,人々を作り上げる以前に,人々によって作り上げられている側面があるということです。人間の科学の営みの中に,既にループは存在していたのです。 さて,本書最後の二つの論文では,浦野論文に引き続き,ループ効果のこの側面([p])に焦点を合わせたものです。それらは,実験的営為でなくとも,学問というものが実践であることを改めて理解させてくれるものです。優生学を扱った石井論文では,優生学実践においても,ガーフィンケルの言う「解釈のドキュメント的方法」が用いられていることが指摘されています。この方法は「常識的推論」の特徴としてガーフィンケルが提出したものでした。 最後の中村論文では,人文/社会科学の営みを扱っています。これらの学においても,個々の領域において,それを方向づける概念があることは日常的営為と変わることはありません。その際,同じ日常的な概念を用いた別の主張がさりげなく,しかし変革的意義をもって行われる様が描かれています。さらには,近年生じた自然科学者と人文科学者の論争,サイエンス・ウォーズがループ効果の観点から検討されています。 さて,最後まで読んで頂ければ,この本を通じて,ループ効果たるものにそれなりに輪郭が与えられたことに同意して頂けるかと思います。学問的営為が自律的な領域でありつつも,対象となる領域の概念/思考に既に埋め込まれていること。そして,学問的知見がループ効果として,対象となる領域に働きかけること。こうした一連の諸動向に諸事例をあたえ,少しでも見通しを与えることが本書の一つの大きな目的なのです。 |
■Lynch, M., 1993, Scientific Practice and Ordinary Action. Cambridge University Press.
科学社会学とエスノメソドロジーに貢献してきたマイケル・リンチが、両者の系譜をそれぞれ追った上で、その交錯点、さらには科学のエスノメソドロジー研究の方向性を示した著作。そして、その交錯点を示していく際には概念分析的アプローチから科学知識の社会学が検討されており、本書の背景をなす1冊と言えます。(邦訳『科学と日常的行為』(仮題)の予定があります。)
■イアン・ハッキング、2006、『何が社会的に構成されるのか』出口康夫・久米暁訳、岩波書店。
社会構成主義をいくつかのテーマに分けて論じた著作。なお、邦訳は抄訳です。ここまで参照してきたハッキングの「類(kind)」という概念については第5章「種の製作」において述べられています。また、第3章「自然科学はどうなのか」においては、科学論における構成主義の論点が腑分けされた上で検討され、構成主義的発想を活かしていこうというハッキングの立場も示されています。
■戸田山和久, 2005, 『科学哲学の冒険』 日本放送出版協会(NHKブックス1022)。
実在論の立場から「科学哲学」を対話形式で説明した教科書。科学哲学の論点や立場がわかりやすく説明されており、科学哲学の問題関心が明確に理解できます。なお、科学哲学の観点からは観念論として片付けられてしまう社会構成主義の問題関心に関しては、上記ハッキングの第3章において説明されています。是非、双方を並べて読んでください。すると、哲学と社会学との交錯点がより適確に理解できるはずです。